伝説

悠久ノ風 第10話

第10話 伝説 

「能力階級Fランク。無能力――只の日本人だ」

草薙の言葉が鎮守の海に響く。
Fランク、無能力。
草薙への調法を行った葉月とアゲハはその事実を理解した。
しかし――

「えっ……」

草薙の言葉に少女達が停止する。
その言葉に聞き覚えがあったような気がした。

――只の日本人。
その言葉は、葉月達の信仰の底流に触れた気がした。

「どうした?」

「あっ……いや、なんでもない……そう、か。Fランクか」

「ガッカリしたか?」

「いや、そんな事はないのだが……その……正直、意外だったんだ」

自分でも意外なほど葉月の心に落胆はなかった。
正確には不思議な気分だったのだ。安堵のような落胆のような複雑な
気持ちが葉月の胸中にあった。

「草薙さんは普通の日本人だと。そういう事でしょうか?」

「そうだぞ。所得も低いぞ」
「いや! 確かに今の日本は不景気だが……皆が皆、草薙の様に低いわけではないぞ!!」
葉月が突っ込んだ。草薙の自尊心に3のダメージである。

「くっ!? ひんこん☆は、お呼びじゃねぇってか!?」
「そ、そんな事はないぞ草薙。むしろ只の日本人だからこそ大歓迎だ」

「ええ、葉月さんの言う通りですよ草薙さん。風守は日本人の為の神社です。
普通に生きる日本人こそ歓待すべきなのですよ」
「早綾も日本人手当するでござるよ~~」

シュタっと手を挙げた早綾が快活な声をあげる。

「是、日本人助けよ、風守の教えだ。日本人手当という奴だな」

風守の教えを口にする葉月やアゲハ達の表情はごく自然なものに見える。
心から風守の教えを信じているのだろう。

「風守は日本人の為の神社……葉月やアゲハ達も日本人の為に尽くす……そういう事か?

「そうだ草薙。それが私達が奉じる風守の真だ」

――日本人手当

その言葉は様々な意味を持っている。
困った人間がいれば手を差し伸べる。
悩んでいる人間がいれば元気づける。
苦しんでいる人間がいれば助ける。

心を――風にする。

虚神自身も、道に迷った人間の前に表れ救いをもたらしたといわれている

その志は彼女達も同じという事だろう。

「草薙お兄ちゃんも知ってるでしょ。今の風守がどんな目で見られているか」
早綾の表情に暗い影が落ちた。

「……一応はな」
草薙は知っている。
風守が糾弾され弾圧されている立場にある事を。
そして、今はいつ風守の人間が殺されてもおかしくはない立場にあるという事を。

「もう慣れたって天代様はいってるけど……私達にできる事があるならなんとかしたいって思ってるのでござるよ」

「早綾さんのいう通りですね。ここに来てくれた方を、できるだけおもてなしなしる事で。少しでも風守に対して良き心象を抱いて頂ければと、アゲハめも考えています」

「風守の為に日本の為に、か」

彼女達の想いは望郷の念に似たものだった。
この国の守護者であるという虚神。
だがその名はいまや過去のものだ。
彼女達の想いは失われたものを取り戻したいという信仰心に根付いたものだろう。

「どんな事でも……日本人の為にもするのか?」

重々しい言葉で草薙は少女達に問いかける。
「そう……だな……それが風守の教えだ」
草薙の様子に気圧されながら、葉月は応えた。
「……草薙さんのいう事とは……どんな事でしょうか?」
アゲハの問いかけに
「俺は……モテないんだよ!!」
草薙が叫んだ。魂の叫びだった。

「い、今ので大体草薙お兄ちゃんの方向性がわかってしまうのが悲しいでござる」
高潔な雰囲気がぶっ壊れて、幼女が若干引いていた。だが草薙は構わない。
「ぶっちゃけモテなくてもいい!! だがモテる事によって得られるものが欲しいのだよ!!!! いやしたいのだよ!!」
「ゲッス!!あんたゲスゲスやないの!!!」
ラムが草薙のゲスっぷりに頭を抱えた。
「ゲスゲスでござる~~」

「その通りだとも。だが俺はゲスでも揉みたいのだ!!」

――もう揉んでるじゃねぇか
後ろの下忍達は思ったが、草薙の狂気めいた述懐にツッコミを入れる事ができない誰にもできない。

「必死すぎるだろ草薙!!色々崩壊してるぞ。お前は世間の目とか気にしないのか」
「世間と調和を持って生きるか、それもまた良し。だが俺は世間体よりも、俺は俺の
想いに正直に生きたい」

「草薙お兄ちゃん!!すごく真っ当に最低でござるね!!」
ごくり、と早綾が息を飲んだ。

「えっ……あのっ……いやまぁ、確かに風守のくノ一がそういう事を全くしてこなかっ
という事は……言いませんが……」

戸惑いながら、髪をいじるアゲハは中々に扇情的だった。
早綾がアゲハの事を天然小悪魔といっていた理由がなんとなくわかった。

「そんな事ってどんな事でござるか~~アゲハちゃん!! 早綾全くわかんないでござる~~」

早綾がアゲハの逃げ道をガッチリ塞いだ。

「さ、早綾さんにはまだ早いかとアゲハめは思いますよ!! 」

「ちょっとあんた!!いい加減にしないと(また)ぶん殴るわよ――」
草薙の不穏な気配を感じ取ったラムが止めに入る。

「黙れ小娘!! 貴様にぽっちの何がわかる!!?」
「なっ」

草薙の烈しい気合いがラムを圧した。
それはぽっちの叫びだった。

「日本人の為に奉仕する風守巫女の心、確かに受け取った」

草薙が深くうなづく。

「は、はいっ」

彼女達がごくりと息を飲む。
もじもじと体を動かす姿は可憐さがあった。

「あぁ……う、うん……そ、そうだなぁ……」
「そ、そうですね草薙様……」
「えっ……では……どうぞ……でござる」

可憐な少女達を前に、草薙は日本人手当の偉大さを実感する

「あぁ、では俺の日本人としての主命は――」

草薙が日本人手当の内容を言おうとした時。

「死ねえええぇぇぇぇ!!」

ラムが草薙めがけて凄まじい勢いでドロップキックを草薙の脳天めがけて繰り出した。
「あぁぶない!!」
草薙が川に飛び込むように水面へダイビング、ラムのドロップキックを避ける。

「なんじゃい小娘!! おんしに用はないぞ」
草薙は鬼気迫る様子で鬼気迫るラムに向かって怒号した。
「引っ込んでおれ!」
何キャラだよ、とラムは思う。
草薙は一歩も引かない姿勢である。

「ずぇーーったいあんたろくな事いわないでしょ!!」
ラムが半端なく怒りはじめる。ラムの怒りは既に危険水域。
雷の理がビリビリとラムの周囲に渦巻く。
「ひっ……ちょっちょっと!? ラムさんこの水場で電撃は……まずいですよ!!」
「そ、そうだぞラム!!」

水場で電撃を放とうとするラムを葉月とアゲハが慌ててなだめにかかる。
草薙もやばいが、ラムも大概やばかった。
「離しなさい!! このド外道をほおっておくとえらい事になるわよ!!間違いない!!」
「お、落ち着いてあっ、あっちで話をするでござるよ~~」

草薙を●そうとするラムを三人がかりで抑える。
かなりの怒髪天ぶりである。
放っておくと雷撃でここの全員がやられかねない。
「ラム、おまんも色々大変やな」
「なんで他人事なのよあんたはぁぁぁーーーー」

「ラム!!あっちで話をしようあっちで!!」
「こ、こらーーあんた達!! あいつをやらせなさい!!」
ラムを抑えて三人が奥の方にいく。

「だいたいあんた達は、風守の教えを忠実に守りすぎてんのよ!!
草薙への天誅の前に、あんた達を調教してやるわ!!」

ラムがびしっと葉月達に指を突きつける。
風守の教えに基づいた日本人手当を忠実に実行しようとした彼女達にも
一家言あるようだ。

「わ、わかりましたからラムさん。ですからその超級雷撃理法を収めてください」」

暴れる熊のようなラムをなだめて、アゲハは草薙を見やる。

「ええと、なんというか色々複雑なのですが……草薙さん。アゲハめ達は一度失礼させていただきます」

「すまないな草薙。日本人手当は次の機会だ。だがあまり教育に悪いお願いは駄目だぞ!! お姉さんだからな」

お姉さんだからの意味がいまいち不明である。

「わ~~葉月ちゃんが保身に走ったでござる~~」
「ひ、人聞きの悪い事をいうなぁ早綾ぁ!!」
やいのやいのいいながら、ラムと少女達が後ろにさがらう。

「おうよ、まぁ女同士、ゆっくりやってこい」
草薙が手を振って見送る。
「い、意外とあっさりしてるんだな草薙」
草薙のあっけらかんとした態度に葉月は少し驚いたようだった。
当然のようにもっと食い下がってくると思ったからだった

「ひきとめないのでござるか?」
「いんや別に。まぁ女同士ゆっくりやってこい」
草薙のあまりにもあっけらかんとした態度。早綾は少し考え込んだ後
口を開いた。

「草薙お兄ちゃん、実はそんないやらしい事を言うつもりはなかったでござるか?」

「俺はムッツリスケベだからな」

「……本当にわからない奴だな……草薙は……」

「細かい事は気にしないほうがなんだかんだで人生うまくいく。まぁ、ゆっくりやってこい」

「……それではアゲハめ達は失礼しますね、草薙さん」

アゲハが去り際に、他の下忍達に視線をやるた。
下忍達がコクリとうなづくのが見えた。

「こ、こらーーーあいつをやらせない。大丈夫よ! 今度はちゃんと隠蔽するからーーー」
暴れるラムをどうどうと抑えつつ、葉月とアゲハ達が奥の岩場に進んでいく
「うむ、残念ながら日本人手当はまたの機会ということだな」
嘆息する草薙。

それもまた良し、とつぶやき癒しの泉で足を伸ばす。
温泉に浸かっているような気分だ。
一人でゆっくりするのもそれもまた良しだ。
それに……彼女達の風守への考えも知れた。
(……危ういな……)

風に消える様に小さく低く草薙が呟く。
彼女達と話していて理解する事があった。
風守の教えに彼女達は忠実過ぎる。

彼女達は現在、ギリギリの環境下にある。
苛烈な危難は神の信仰を増幅させる糧となりうる。
生き延びる為にそう考えざるを得なかったのは理解できる。

(そろそろ――ここから離れないとな)
彼女達の想いを知れた事は良かった。
彼女達の心は美しく真っ直ぐだ。国を想い人を想い、共同体を想う。
危ういほどに。
だからこそ、草薙悠弥がこの風守にやってきた意味はあった――残念ながら。

(さて、後は一人になるには、だが――)
草薙が湖の奥の方へと目線を向ける。もう彼女達の怪我の峠は越えた。
あとは自由に動く。
自分の目的を果たすために。
しかし、やはりというべきか。一人になるのは難しいという事も悟った。
後方で水を弾く音が聞こたからだ。

「――失礼致します、草薙様」
艶然とした声に振り向くと、数人のくノ一がいた。
道中一緒した風守の下忍達である。
「草薙様、私め達がお相手しますよ」
数人の下忍がおっとりした笑顔を浮かべる。
「随分サービスがいいなぁ~~」
どうやらすぐ一人になるのは難しいらしい。
(――それもまた良し)
草薙は前向きに考えた。なんせ美女である。
「私達は日本人の相手をすると仰せつかっていますので」
「テンション上がってきたーーーー!!」
彼女達の容姿は思った以上の破壊力である。

「草薙様、先ほどはありがとうございました。道中私達に色々してくださり、嬉しく思います……おじい様やおばぁ様達も、きっとお喜びになられます」

「あぁ、気にすんな。じいさんばぁさんを大事にすんのはいいと思うぞ。それよりも、あんたらは行かなくて、大丈夫なのか?」

「ふふ、草薙様は久しぶりのお客様です。お客様をお一人にするなど無体な事は致しませんよ」

「本当は、ワイの監視なんじゃろ?」

当然の事ながら草薙は自身が監視対象だと自覚していた。
調法は完全なものではない。眷属化の儀式と同じで、深く接すれば
接するほ調法の精度は高くなる。
彼女達は、草薙のFランクという情報をより多角的に調べたいという事だろう。
(それだけ風守るが追い詰められているって所か)
あの魔族との戦いの恐怖と死を実感したらある種当然の心の動きであった。
そう考える草薙の心中を知ってから知らずか、下忍達は蠱惑的な微笑みを浮かべる。

「ふふ、監視だなんてそんな事はありまぬよ。
私め達が仕えるは日本人。この風守はその為の社です。
ましてや草薙様は、世間の非難が高まっている中で来訪
してくれた日本人。
この風守に来て頂き、嬉しく思っておりますよ」

下忍達は折り目正しく頭を下げる。
動くとたわわな胸がぷるんと揺れた。
(よく教育されている、色々な意味で)
下忍達は各々、心から歓待するような優しい笑顔を浮かべている。
日本人の為の神社である。その信仰は事実である、その彼女達の心
も真実だろう。
ちなみに嘘をいうコツは真実を適度にまぜる事である。

「草薙様。あちらで少しお話をしたいのですが?」

美女達が、泉の奥へと誘う。
草薙は彼女達がアゲハと目配せした事を思いだした。
恐らく草薙がFランクである事に疑いを持っているのであろう。
彼女達は草薙を更に深くく調べるためにここに来たのだ。
(癒しの泉に浸かったとはいえ、まだ怪我も完全に直って
ないだろうに……本当に……大した忠誠心だ)

草薙は冷静に彼女達を分析する。先ほどの葉月とアゲハとの
会話で感じた。
彼女のこの風守の教えへの信仰は透徹したものがある。

「こちらの奥へ……宜しいでしょうか草薙様」

湖の涼やかな景色を背景に、美女達の
艶然とした微笑みが映る。

クラッとするほど魅力的だった。
(だが……甘いな)
草薙の目には冷徹な光りが宿る。
色仕掛けでつろうという手法だろう。
しかし――

(俺は理性の怪物とも呼ばれた男。
そんなエサに俺がつられ――)

「いいですともおぉぉぉぉ!!」

草薙悠弥は俗物だった。

◆ 

「ですよねーーーーーー!!」
草薙はハイテンションだった。
下忍くノ一と様々な会話をする。
道中の森の中でも彼女らと触れあった草薙だが、森の時にあった
張り詰めた雰囲気が薄らいでいた。

「ふふ、確かに正直に申しあげますと草薙様は色々不可解な事が多いです。
そういう点では色々あなたの事をお調べするようにとも言われていますよ」
会話も一息ついた後、くノ一は草薙にそう言った。

「意外に素直っすね」

「ふふ、私め達はこのような生業を営んでますから。それは風守の教えは日本人には親切に真摯に、が基本ですよ」

基本、と付け加えるあたり、根が真面目なのだろう。
別の思惑もあるという事を言外に示していた。
最もそう感じさせるようにあえてそういう言葉を使ったのかもしれないが、
そのあたり考えてもキリがない。ドツボにはまりそうなのでそういう考えはやめにしよう。俺は単純にいきるぞーーーーーー
「それに先ほどの、日本人の気持ちを楽にしたいという草薙様のお考え、とても素晴らしいと私め達は思いますよ」

美女達がニッコリと笑う。
葉月も言っていたが、日本人を少しでも幸せにしたいという理念は風守の理念そのものなのだ。

「それに……薬草も頂いて本当にありがとうございます」
「あぁ、役に立てたようでなによりだ」

「ええ……この神社を離れるおじい様や子供達によい贈り物ができました」
「そりゃ良かった。じいさんやガキ達も、土地に愛着ってやつあるだろう……あんたらから渡してやりゃあ喜ぶだろうさ」

「あなたに心からの感謝を、草薙様……」

くノ一達は草薙に深々と頭を下げた
彼女達の心からの感謝が伝わる。
老人達の事を本当に思っているのであろう。
一瞬だが彼女達の印象が変わる。
蠱惑的な美女から、素朴で優しい少女の様な面貌に変わったように見えた。

そう思わせるための演技かもしれないが、どっちでもいい。
草薙への思惑がどうあれ、
彼女たちが風守の老人達を想っている事は真実だとわかるからだ。

「あんたらは本当にこの風守の事が好きなんだな」
「はい……もちろんでございます……私達は虚神を信じていますから」
私達は虚神様に仕える身です……そういう点からいっても、私めはあなたに何か特別なものを感じているのも事実です」

「あの漆黒に私達は命を助けられました……私め達はあの魔族が言っていたように……あれが虚神様そのものとは確証はもてませんが……無関係だとも思えません」

その言葉も虚実入り交じるっているのだろう。
美女から「あなたからは特別なものを感じます」と言われて悪い気がする男はいない。このように優しい笑顔だと同姓すらも安心感を抱くだろう。
(俺のようなちょろ男なら、即オチ間違いなしだな)

「なるほどな」
彼女達の草薙への見方はある種当然であり、正しい。
だから草薙自身もそれに異を唱える事はしない。
彼女達に考えている事はあるだろう。そしてその勘は全部が間違いというわけではない

「わかった……じゃあ頼みたい事があるんだ」
静かに草薙は彼女達に語りかけた。

「えっ……」

数人の下忍達が首をかしげた。
顔に朱がさしている。
色仕掛けでこちらの身元をさぐろうというのだろう。
返り討ちにしなければならない。

では美女の思惑に乗ろう。

「じゃあしてもらうか、日本人手当」

それに――そろそろここを離れなければならない

「…………」
赤らめて倒れている下忍 くノ一CG
「はぁっ……」

「はぁっ……」

うっ……

リアリスが舞う湖に浮かぶように、何人かの下忍は倒れていた。
はぁはぁと声が漏れる度に、豊かな胸がぷるんと上下する。
荒い息で体を上下させている。

初夏の泉は太陽に照らされ輝いている。
そこに横たわる美女の姿はなんとも蠱惑的だった。

そこに草薙悠弥の姿はなかった。

――其処に幻想はあった。

蒼の海に広がる光景。
竹笹が風に揺れる。
大地は清らかな水流に満ち、神域の奥へと続く大樹が立ち並ぶ。
旅人を癒すように、湖から立ちのぼるリアリスが淡い輝きを放つ。
清水に濡れる地が陽光に煌めき、数多の命と精霊の息吹が満ちていた。
神域の森は奥に進むに連れ、その輝きを増していく。
その聖なる森の中心で――草薙悠弥が一人進んでいた。

鎮守の海を、草薙悠弥は一人泳いでいく。
風守のくノ一達から日本人手当を受けた際、
草薙は彼女達にある事を行った。
そして彼女達の監視を抜け、今草薙悠弥は一人でこの地を進んでいる。
どうやって彼女達の監視を抜けたかは、大人の事情である。
ある意味過激な方法をとったのだが――

(――それもまた良し)
結果は良しといえる。
彼女達の呪毒も薄める事もできたし、自分としては今できる事はやった。
(なんとかなるだろう)
草薙はこの地を慈しむように悠々と杜の海を一人進んでいく。

広大な湖を進む。
鎮守の海を一歩、また一歩。
聖なる森を抜けていく。

(本当にここは……あの場所に似ている)
草薙は知っている
この湖にはモデルがある事を。
かつて戦争があった時代。
虚神が戦い、仲間が集った場所。
伝説の神域ともいわれる虚神の拠点。
現在の風守はそれに準拠して作られている。
この鎮守の海は虚神の拠点にあったある神域が元になっている事を、草薙は知っていた。
半身を水に浸しながら、一歩、また一歩と草薙悠弥は神域の最奥へと足を勧める。

傷を癒す水が体に浸透していく。山道を歩いた汗や疲労を洗い流していくかのようだった
陽の光を受けた清らかな水が心地いい。

水はどこまでも透明。

透き通る水面は降り注ぐ陽の光を通り、光る湖底を映し出していた。

「よっ――」
草薙は水中に体を沈めた。
水の中の光景が目に飛び込んでくる。

水中のリアリスが舞い踊るように浮いている。
それは夏夜に光る蛍のような輝きを有していた。

水の中で、草薙は視線を上に向けた。

水面に映し出される太陽が、揺らぎ光りを放っている。
(綺麗だな……)

どこまでも透き通る水、そして光る太陽が草薙の目に映し出された。
自然の暖かさを全身で感じる。この感覚が彼は好きだった。
水の太陽を眺めながらゆっくりと浮上する。
草薙は水面から顔を出した。

「…………」

風がゆっくりと流れる。
優しく旅人を迎えるような風が草薙の体を通っていった。

「…………」

目をつぶる。深き自然を体中に感じる。
静かだった。

「色々あった……か……」
自然と草薙の口からそんな言葉が零れ出た。

鎮守の海を風が吹き抜ける。
穏やかな時間が流れていく。
――ヒュウ、と
風が静かに流れ続ける。
その風にのって――

――あなたの国が永遠でありますように

歌が聞こえた。
その優しい音色は草薙の体に優しく染みいるようだった。

(この声は……)
癒しの泉に歌が響く。
優しく包み込むような歌であり、どこか儚げな音色が草薙の心に満ちていくかの
様だった。

「――ッ!?」
弾かれるように、草薙は声の方へ向かう。
歌声に導かれるように、草薙は深奥へと足を速める。
気づけば走っていた。
深奥へ立ち並ぶ大樹をいくつも駆けていく。
どれほど進んだだろう。
更に視界が開けた。
そして――

――あなたに安息がありますように

彼女はそこにいた。

鎮守の海の最奥に響く蒼生安寧歌。
碧の海で少女は歌う。

切り取られた一枚の絵のような幻想の光景がそこにあった。
理力を宿した光の粒子リアリスは妖精のように光りを放ち泉を優しく
包んでいる。

「<命>……」
そこにいたのは少女。
鎮守の海の奥で謳う<命>の姿だった。
少女は幻想が形を成したかのような神秘があった。

神社の時と同じように、彼女の歌はこの海でも優しく響き渡っている。
だが神社の時とは、彼女が身に纏うモノが大きく異なっていた。
纏っているのは、純白のレオタードの様な法装。
葉月やアゲハと似た形状だろう。
癒し祈る、彼女の神性を表しているかのようだった。

少女の体に蒼の理光が明滅した。。

――蒼生安寧

少女が誓言を紡ぐ。
大気が巡り、理力が優しく湧き出る。

夏の太陽が聖泉を照らす。
泉に半身を浸からせた少女達が、護りの歌を詠ずる。
斉唱が響いていく。

祈りに呼応するように、
蒼の海に舞うリアリスが明滅。
光が集束する。

草薙は何も言わず彼女の様子をじっと見ていた。

――我が祈りは蒼生の安息
蒼生とは国民の事を意味する。
彼女は日本の民の安寧を心から祈っている。

――蒼生に幸あれ
言葉と共に、泉に満ちる理が波濤のように広がる。
リアリスが立ちのぼり泉が浄化されていった

――あなたに希望の風がありますように

少女が結いの言葉を口にする。

「――――」

少女がゆっくりと目を開けた。少女はこの時、自分を真っ直ぐ見る
草薙と目を合わせた。

「悠弥様……」

驚いたように<命>は草薙を見ていた。

あまり表情を崩さない少女だが、彼女は慌てて頭を下げようとする。
「ご、ごめんなさ――」
「――謝らなくていい」
「ですが……私は……悠弥様の命を破りました…………」
「お前はよくやってくれたよ……日本人の命を助けた」
「悠弥様……」

「俺の命令がどうとかそんな事はいい。そんな事よりこの癒しの泉がここまで力を回復させているとはな」

「………私だけではあの方達の命を繋ぐのが精一杯でしたから……この泉で少しでも回復してもらえればよいのですが」

<命>の癒しの神理。
その神理は魔族、魔物に致命ともいえる傷を負わされたくノ一達の一命をとりとめる事を可能にした。

「あいつらは無事だよ。お前が施してくれた治癒理法のおかげでな。一命はとりとめた」

「良かったです」

ほぉっと命が安堵する。
心から他者を案じているようだった。
己よりも他者を案ずる風守の鏡ともいえる気質。
<命>のその姿は草薙にとって複雑な心を想起させる

「あの風守のくノ一達は日本人だ。そして日本の為に尽くす心がある。いい奴らだよ。そいつらの命を助けたんだ。その点は感謝している」
「はい……悠弥様……」
悠弥の言葉に<命>は顔を伏せる。

「俺はお前が嫌いだ。だが蒼生を癒す存在がいなくなるのはよくない。
神社でお前を消さなかったのもそういう事だ」
突き放すような言葉、しかし悠弥は<命>を真っ直ぐ見ていた。

「それに……俺の方の処置も助かった……礼をいう……」

「ありがとうございます……悠弥様」
<命>は悠弥に笑いかける。
母が自分の大切な存在に微笑みかける様な慈愛があった。
<命>は悠弥に感恩の念を捧げる。

二人の間を優しい風が吹き抜ける。
太陽の光は依然として燦々と二人を照らしていた。

「悠弥様は……お体は本当に……大丈夫なのでしょうか」
「問題ない……むしろ楽しくなってきた」
「楽しく……ですか?」
「窮地の時こそ笑えってな。まぁストレスを感じた時こそチャンスだってな」
「ストレスを感じた時こそチャンス……」
「ストレスというのはエネルギーだからな。
ストレスや気になる事はエネルギーのバネにするのがいい。難しいかも
しれないが」
「ふふ……そうですね。病は気から、と昔からいいます」

何か大変な事やストレスがあれば「楽しくなってきた」と言葉に出すのは
脳のストレスを軽減させる効果がある。
自己暗示、だが神理者にとってそれは大事な要素の一つだ。
思い込みと自己暗示。
色々な面で才能のない草薙悠弥にとって生きていく上で大事なものである。
「楽しくなってきたっていっておけば、事実はどうあれ頭は楽しくなってくるように思えるもんだ」

「つらい時でも……意外と支えになるもんさ」
小さく呟く草薙に、<命>が優しく微笑む。

「……変わりませんね……悠弥様は
私の治癒の理は体を癒す事はできても、心はそうはいきません……」
悠弥様の言の葉は心を風にしてくださいます。
例え、人の傷を癒す事ができなくても、悠弥様は人を元気にしてくれます」

人を前向きに理解する。それが<命>の特徴の一つだ。
少女は悠弥に向かって優しく微笑む。日本人に安心を与えたい、その心持ちがにじみ出ているかのようだった。

「『言えると癒える』ってな。俺は自分が楽に生きれる考え方をしていきたいだけだ」

「……悠弥様は」

「お前こそ大丈夫か。かなり体に負担がいっているだろう。
回復役に倒れられると日本人の生命に関わる」

「だ、大丈夫です悠弥様。私はまだ――」
いけます、という少女の言葉は続かなかった。
「あっ――」
<命>が足をとられる。足がもつれ転びそうになった所をすんでの所で
草薙は手を伸ばした。

「おいっ!」
草薙が<命>に手を伸ばす。
「あっ……」
<命>が儚い掠れ声をあげる。
大きく柔らかい感触が草薙の手に広がる。
草薙が、倒れそうになっていた<命>を受け止めていた。

だが魅惑的な乳房にあたった形だが、草薙は一向に頓着せず真剣に<命>の
様子を見ていた。少女が押し殺していた消耗が表層に浮かび上がっている。
「かなり……消耗しているな」

「……申し訳ありません……悠弥様」

「別にいいけどな、それより大丈夫か?」
草薙は<命>を見る。
「やっぱり疲れ、たまってんだろ」
「……大丈夫…です……悠弥様」

疲労を表に出さない少女だが、それでも隠しきれない消耗が見える。

「……あまり無理をしすぎるな、足下すくわれるぞ」

「……申し訳ありません」

草薙は<命>の手を離す。<命>が離れるが、足取りが少しふらついていた。
(大変だったんだな……)
<命>が限界まで神理を酷使した反動だという事が嫌でも理解できてしまう。

「風守のくノ一達も死にかけたけどな……お前もある意味似たようなもんだろ」

皆の救命のため、あれほどの回復理法をかけたのだ。
<命>が倒れそうになる位、力を消耗していて然りだろう。
むしろ、今の状態でいられる事が奇跡に近いのかもしれない。

「それより、ここを含めた風守の結界を修復はいったんはいい。
お前は休む事を考えろ」
草薙が対応した葉月や一部下忍達も結界の修復が可能なようになっているはずだ。
何も彼女一人で背負う必要はない。
「結界の修復は私の力ではありません……風守の皆様が普段からこの風守という場所を清めてくれていました。私はそこに一粒の雫を入れたにすぎません」
<命>らしい意見に草薙は嘆息した。
「普段から真面目にやってる奴がいてくれるおかげだな。お前も含めてだ」

「お前もあいつらも真っ直ぐだ。真面目な奴はいいよ。真面目な奴が一番強い」

「ふふ、そうですね。悠弥様が一番強いです」

「…………」

ごく自然に、<命>は草薙に微笑みかける。
その<命>の言葉に草薙はなんともいえない顔を作った。

「悠弥様は……真面目な御方ですから」

「お前も……相当疲れているみたいだな」

「ふふ、そうかもしれませんね。でも……私も、悠弥様の厚情に報いているだけなのですよ」
力無く笑い<命>は湖を見渡した。そして草薙を見据える。

「この風守を守ってくれた事、厚く御礼申し上げます」
「……俺はやりたい事をやっただけだ」

「ですが……今の私ではこの風守の加護を保てるのは長くないでしょう……おそらく今風守の方達も癒しの泉を復活させようとしているでしょうが……」

アゲハ達が草薙から離れたのは恐らくそれも理由の一つだろう。

「あの場所のようにはいかないか……」
ふと草薙は呟いた。その言葉を聞いて、<命>は目を伏せる。
「……あの場所は余りにも特殊な神域です。
この風守を法定した天代様はよくやってくださいますよ……本当に……」
草薙の言葉に<命>は遠い目をした。

「少し……不思議です……」
「何がだ?」

「悠弥様がこういう風に、私とお話してくださる事はないと思っていましたので」

「俺はお前が嫌いだ」

「……はい」

「だが役に立つ奴がすぐ倒れてもらっては困る。それだけだよ」
「……はい、存じています……ですが」

<命>は躊躇った後に悠弥を見た。彼女は知っている。草薙悠弥は<命>を
受け入れる事はできないと。それはわかりきっている。それより心配なのは――

「私の事は構いません……私が心配なのは悠弥様の方です……あの力を今の悠弥様が使うのはあまりにも危険です……」

「……」

草薙は否定できなかった。嘘も軽口も返せない。
悠弥が奮った『あの力』は大きすぎる危険を伴っている事を
彼はしっていた。

「悠弥様……あなたはなぜそこまで身を捨てて……戦うのですか……」

「誰もが諦めています。この国を。
諦念の理が……満ちています」
「…………」
<命>の語りは悲痛なものが濃くなっていた。自分の事ではない。
草薙悠弥という男の在り方を想うと彼女の心は張り裂けそうだった。

「それに悠弥様は……誰よりもこの日本から――」
<命>が引き止めるように悠弥に声をかけようとした時だった。

「――俺は空気を読まないんだ」
唐突に悠弥はそんな事を言う。

「え?……」

「誰がこの国を見捨てても、知ったことじゃない。
そいつはそいつで適当に幸せでもつかめばいいさ。
好きにすればいい」

「だから俺も好きにする。
社会に馴染むとかそういうのは向いていない。
自分の信じるべきものを信じる」

草薙悠弥は無道者だ。
だが今の社会の倫理や美しい故に問題がある。
少し頭が回るならとっくに、気づいているが
そういうものが全て正しかったら、今の日本はここまで深刻な社会不安を抱えていない。
「言っただろう、俺は俺の理で生きるってな」

草薙悠弥は己の理で生きている。
国敵討滅――その真理の為に

「―― KYなんだよ、草薙悠弥は」

「悠弥様……」
その言葉に、<命>は言葉を継ぐ事ができなかった。

「……悠弥様……私達の……この風守の命を救ったのは悠弥様です。悠弥様の風はいつも人を……この国の人を救ってくださいます……」

風が吹く、沈黙が挟まれた後、<命>は優しく草薙を見据えた。

「――私は悠弥様を信じています……
あなたはこの国の為に戦ってきました……自由に……何者にも縛られる無く」

何者にも縛られず国の為に戦う。
虚神のその在り方は特異だった。

「ですから……」

命は草薙の事を真っ直ぐ見る。
彼女は全てを受け入れる。草薙の特異な在り方をも。
草薙悠弥の真を信ずる少女が問う。

「風の目的を……お聞かせできますか……」

透明な瞳で真っ直ぐに少女は草薙を見ている。

恐らく彼女は知っているのだろう。
草薙悠弥が何の目的ここにきているのかを――

言語化する事に恐怖を<命>は感じていた。
それは恐ろしい事だから。あってはならない事だから。

だがそれでも<命>は草薙悠弥を信じ問いかけた。

「――伝説の神器」

草薙が言葉を紡ぐ。

「ッ!?」

伝説の神器――その言葉に<命>は体をこわばらせる。

魔族が奪おうとし、そして風守のくノ一達が守ろうとしていたもの。
世界の概念を変える力をもつ器だ。

「日本の神器を……悠弥様は……」

「俺が神器をとりにきた意味、お前ならわかるだろう」

「――第四神器……無神……」
第四神器――無神。その名が静かに響く。

伝説の神器――神剣 無神をとる。


草薙の言葉が風に消えた。